江戸の大殉教の記念日
江戸の大殉教と高輪教会
徳川3代将軍家光は、キリシタン迫害政策を強化し厳重にしました。 1623年(元和9年)12月4日、宣教師を含む信者50名は小伝馬町の牢から 江戸市中を引き回され、東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)から 品川に至る小高い地で、火刑に処せられました。
中でも、下総(千葉)六万石の臼井城々主の長男、原主水がキリシタンの 中心的人物であったと記録されています。原主水は駿河城で家康に 仕えていましたが、キリシタンと判り、手足の腱を切られて追放され、 江戸に潜んでいました。それでも外国人宣教師と協力し活動を続けましたが、 密告により捕らえられ、炎の中で神に命を捧げました。その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンをかくまった人々もまきこんで この地で100名近くの人々が処刑され、江戸全体では、2000名近くの人が殉教しました。これが江戸の大殉教です。
これらの殉教者を称えて、聖堂前庭には 「江戸の殉教者の顕彰碑」が建てられています。高輪教会は、殉教地に近い教会であることから 「殉教者の元后聖マリア」に捧げられており、毎年江戸の殉教者の 記念ミサが11月下旬に行われています。
江戸時代初期、徳川家光に端を発したキリシタン弾圧で処刑された 日本人188名の列福が、2007年6月1日14時(日本時間21時)、 教皇ベネディクト十六世の裁可で正式に決まりました。
日本の殉教者を福者に推す気運は、1981年に来日した前教皇ヨハネ・パウロ二世が 長崎の殉教地を訪れたことで一気に揚まり、カトリック中央協議会の 溝部脩神父らが中心になって、翌1982年から福者候補の人選を始めました。 国内では1862年以降、42人が聖人、205人が福者になっていますが、 そのほとんどは外国人宣教師や男性の聖職者です。そこで今回の人選は、 迫害に耐えながらみ教えに従い命を捧げた武士や町人、市井の家庭人に重きがおかれました。
ところが弾圧で遺品が棄却されたり、罪人として家系から 抹消されたりしており、調査チームは当時の外国人宣教師が ローマに宛てた手紙を徹底的に調べ、 その手紙の行方を追ってスペインやポルトガルにも足を運びました。
そしてようやく1996年、ラテン語による2,700頁の福者申請書が、 世界中から届けられ順番待ちしている2,000冊の1冊に加えられたのです。 さらに「福者にふさわしい」の報を聞くには10年を擁しました。
江戸の大殉教では3人の外国人宣教師がすでに列福されていますが、 今回は信者の代表としてジョアン原主水が福者の列に加わり、 日本で初の列福式が2008年、長崎で行われました。
カトリック高輪教会より転載