ソバニイルカラ

小さなカトリック信徒のブログ

ヨハネによる福音1・1-18について自分勝手な思い

2022年A年の降誕節12月31日は、ヨハネ福音書1・1‐18で終わります。

きょうの福音書の御言葉です。言葉は神さまと共にあったので、この世の中すべては言葉によって成ったという始まりです。今日はちょっと生意気に自分勝手な思いを書かせてもらいます。

わたしが感動するひとつは、5節の光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。というところです。この世でポジティブとネガティブ(陰と陽)とは共存しているはずですが、今日のヨハネ福音の御言葉では、ポジティブな光はネガティブな中でも輝くというのです。でもネガティブな暗闇はポジティブな光を理解できない、つまり認識できないわけです。それはポジティブな光は万物を照らし人間を照らす命をもたらしましたが、ネガティブな暗闇にはそれがわからないのです。もともと罪びとであるわたしたちがその光を認識でき、つまり目を覚ますことができれば、ポジティブな光によってわたしたちの命は照らされていることがわかるのです。また目を覚まさずいままでどおりに過ごしていれば、ネガティブな暗闇の中でポジティブな光が輝くのをぼんやり見ているということです。それは暗闇は光を理解しないからです。どちらが良いとか悪いとかそういう2元論的な分離ではありません。それはどちらにするかという自分の選択、自由意志だということです。ヨハネ福音書のきょうの御言葉にはそういうことも含まれていると今日のわたしは受け取りました。きょうもみなさんの上にたくさんの祝福とお恵みがありますように。良い年越しを過ごしましょう。主に感謝

 

アレルヤアレルヤ。みことばは人となり、わたしたちのうちにお住みになった。主を受け入れる人には神の子となる恵が与えられた。アレルヤアレルヤ

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。

12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。12この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。