ソバニイルカラ

小さなカトリック信徒のブログ

使徒ヨハネの手紙 1、2・22-28 について自分勝手な思い 

使徒ヨハネの手紙

ヨハネ1、2・22‐28

教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

愛する皆さん、2・22偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。23御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。24初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。25これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。

きょうの第一朗読はヨハネの手紙でした。個人的にはとても好きです。理由は「御子のうちにとどまりなさい」という御言葉です。これほどはっきり言ってくださると、「絶対」だと信じます。「御子を認めない者は誰も御父に結ばれていません」とヨハネは断言します。断言するのは当然です。それはこのことばは真実だからです。そして「御子を公に言い表す者は御父にも結ばれています。」と続けます。

確かにそのとおりです。わたしはカトリックだと自分を紹介するとき、また人と会話をするときにも主、イエスさま、またマリアさまの話を出します。するとどんな人でも、関心を持ってくれるのです。それはなぜかというと主をイエスさまを公に表すからです。コロナ渦になってから現代の人々はどれほどの不安や心配をもって生活をしているか、たくさんの人たちが自分に自信を失くしたりして、実は心のどこかで自身の平安を求めているように思います。

そこでわたしのようなイエスさまの僕である、いつも一緒にいる(と信じている)者が、寄り添い会話をしたり、聞いたりしているとイエスさまがいつの間にかそういう彼らを癒してくださる。そういう愛の波動がわたしを媒体(イエスさまの手となり足となり)として伝わるのです。わたしは何もしていません。ただ寄り添って聞くだけです。でもそこにイエスさまは一緒にいてくださるのです。

もちろんそういう人たちはイエスさまと繋がっているわけではありません。キリスト者でもありません。でもイエスさまはどんな人でも誰でも隔たりなく平等に愛してくださっていますから、何もできないわたしを通して彼らに平安を与えて下さっていることがわかります。

26以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。27しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。

28さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。

そうなんです。教えられたとおりにイエスさまの内にとどまり、自分のなかにイエスさまが住まわれるということによって、いつでも目を覚ましておくことができる(つまり確信を持つことができる)ので、主がいらしたときには御前で恥じ入らなくて済むというわけです。

エスさまと絶えずいっしょにいるように、またどうしたら絶えず足元にいることができるのかを考えています。修道院のブラザーやシスターではないので、朝から寝るまでお祈りをして過ごすことはできませんが、それでも可能な限り、横断歩道を待つとき、電車を待つとき、とにかくひとりでいるときは、主の祈り、アベマリアやロザリオを祈りながら過ごしますが、どうしても世俗の中ですから、はっと気が付くとイエスさまから離れているわけです。そういうときは、ズボンのポケットの中のロザリオを繰りイエスさまの元に帰ります。これは迷子の子羊のような感覚です。羊は一頭では生きてゆけませんから、必ず群れに戻ります。はぐれてしまう子羊の声をイエスさまは聞き分けてくださる。わたしもイエスさまに呼んでいただきたいと願っています。だから、離れて迷子になってしまった子羊はイエスさまに探してもらい群れに戻してもらうのです。

エスさまは優しいかたですから、必ず探してくださいます。でもそれはわたしがイエスさまに完全な信頼を置いているからです。ぜったいに探して見つけてくださるのだという確信です。それが今日の福音の御言葉にありました。

「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」イエスさまと共にあり、内にとどまれば、必ずイエスさまは来てくださるという確信をもてるのです。ですから恥じ入るというのは、もしかしたら来て下さらないのではという、まだイエスさまの内にとどまり切れていない気持ちが、恥じ入るということと同義だと思うのです。だからわたしは人にも公言をすることにしているのです。

主に感謝

 

名誉教皇ベネディクト16世の最後のお言葉は「主よ、愛しています」だったというバチカンニュースの記事を読みました。夜中の3時だったそうでドイツ語の分からない看護師さんが独り付き添っていたそうですが、ベネディクト名誉教皇さまは、イタリア語でおっしゃったのだそうです。

木曜日の朝に聖ペテロ大聖堂でお葬儀です。

 

www.vaticannews.va